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2009/10 - 2010/08

 やんごとなき事情により、2009年10月から2010年08月のエントリが吹き飛びました。

 その内、手作業で復元する予定。

第七女子会彷徨 / つばな



 Twitterでとよ田みのる氏が薦めていたので即買いしたんですが、1巻の可愛らしい表紙(怪しいドライヤーはあるにせよ)からは想像のできない、ぶっ飛んだ内容に一発で虜になりました。

 読み始めに、絵柄と雰囲気から古屋兎丸、それも『ショートカッツ』っぽいなと思いながら、グーグル先生に尋ねてみると、「石黒正数に古屋兎丸をほんのりふりかけた様な雰囲気」というレビューを書いている人がいて、「なるほど」と合点がいきました。

 しかし、少しずつ読み進めていくと、そんな相対的なカテゴライズは全く意味を成さないことが分かりました。それくらい独特の魅力がこの作品にはあります。

 どうも自分は今までに読んだ漫画のデータベースを参照して、新しい漫画をカテゴライズしたくなる癖があっていけないですね。カテゴライズはやり易い方法だし、それっぽく背景をちらつかせることができるので、表面上、知ったかぶりができる。でも、いくらカテゴライズの持論を展開しても、自分がどう思ったのかは伝わらないし、作品自体の魅力も伝わらない。

 データベース消費(使い方が合っているかは分かりませんが)を脱却するためにも、少し書いてみます。

 一度読み終わった後も何度も読み返してしまって、何でこんなに惹かれるのだろうと考えてみた結果、この作品を読むことで感じる「違和感」と「胸騒ぎ」がポイントではないかと思い当りました。

 作品の世界観/設定を考えてみると、メインキャラクターは女子高生2人で、とても仲が良さそうに見える。そして、平和に見える世界で、平凡な学生生活を送っているように見える。この"見える"のがポイントで、それによって1話目はまだ「シュールなギャグ漫画かな」程度の印象しか受けません。ただ、得体の知れない違和感はひしひしと感じます。

 そして、2話目を迎える。そこで、1話目で感じた違和感が前面に出てきます。とにかくぶっ飛んでいる。ちょっとだけネタバレしてしまうと、「なんだか解らないもの」が出てきます。それを見た結果、読者としてはこの漫画の方向性が分からなくなる。単純に驚く。人によっては拒絶すると思います。でも、それは実は読者だけで、主人公たちはその「なんだか解らないもの」に驚きはするものの、世界の一部として認識している。自分たち(読者)の世界と主人公(作品) の世界は似て非なるもので、読者としては受け入れがたい程の世界観ですが、主人公たちはその世界で至って平凡に過ごしています。

 この違和感は2話目に限らず、作品全体を通じて続きます。その大小は様々ですが、とにかくぶっ飛んでます。そして、不思議とこの違和感が癖になってくる。じわじわと脳に沁み込んできて、いつのまにかぶっ飛んだ設定もスッと受け入れてしまっていることに気付く。そのことに気付いてしまった時、何とも言えない胸騒ぎがするのです。

 その胸騒ぎは、おそらく「ぶっ飛んだ世界観とその中で平凡に振舞う主人公たちが、実は自分たち(読者)とその世界を投影しているのではないか?」という疑念から生まれるのだと思います。強烈な違和感と驚愕を提示されたはずの作品世界を徐々に受け入れてしまうことが、まさに自分たち(読者)の世界の受け入れがたい出来事に"慣れてしまう"ことをそのまま投影しているのではないか。作品の世界観は、なるべくデフォルメして分かりやすい奇妙奇天烈さを求めているだけで、よくよく考えてみれば、自分たち(読者)の世界もそう変わらないのではないか。読めば読むほどその胸騒ぎは増幅していきます。

 そんな「違和感」と「胸騒ぎ」が癖になるというのはどういうことだ、と思われるかもしれませんが、自分が漫画に求めるのはまさにそういうことです。世の中、そんなにうまい話ばかりではないし、共感できることばかりでもない。そういう漫画も面白いですが、決して見たくないようなことも隠さずに描き切ってしまう漫画の方が漫画家の気概を感じます。この作品がそれを意図して描かれたと結論付けるのはさすがに無理があるとは思いますが、個人的にはこんなことを考えてしまう程、鮮烈な印象を受けました。

 この「違和感」と「胸騒ぎ」が癖になるかどうかは人それぞれだと思いますし、見方を変えると別の読み方もあると思います。実際、自分がこんな風に考え始めたのは3回目くらいで、それまでは「何だか変だけど面白い」とか「ヤバい、癖になってきた」と漠然と思っていました。これからまた読み返せば「高木さんは愛くるしいなぁ」とか思うかもしれない。

 しかしながら、こうやって色々と書きたくなる漫画に出会えたというだけで、自分にとっては価値のある作品でした。とよ田さんに便乗して、お薦めします。

スルッとKANSAI

 台風直撃により、観光どころではないと思われた京都・奈良旅行も、7日の夜中に台風が過ぎてくれたおかげでほとんど影響は無く、通常通りに楽しむことができた。前半2日間は秋雨前線により雨模様だったが、後半2日間は天候も好転。充実した4日間だった。

 今回は奈良、京都、大阪、京都という関西巡りの旅になった。というのも、昔行った所を再訪しようということになったからだ。若かりし日の旅行をトレースする旅。海遊館、天保山観覧車、道頓堀、日の出うどん、第一旭、伏見稲荷など、以前に訪れた所を懐かしみながら巡った。

 特に、食の味は記憶を鮮明に呼び起こしてくれる。

 永観堂近くの「日の出うどん」のカレーうどんは本当に幸せになる味だ。雨で冷えた体がぽかぽかになり、食後はそこはかとない幸福感に包まれた。食べ物であそこまで幸せになれるのも珍しい。京都にいつまでも存在し続けて欲しい店。南禅寺方面に足を運んだ時には、絶対に立ち寄るべき。

 それから、京都駅近くの「第一旭」。今回で5回目くらいの訪問だが、毎回期待を裏切らない。常に安定した味を提供してくれる。言い過ぎのように思われるかもしれないが、日本の醤油ラーメンの中でいちばん旨いと思う。今までどれだけの醤油ラーメンを喰ってきたんだ、と鼻で笑われるのを承知で敢えて言いたい。おそらく、一度食べたら納得できるはず。軒を並べる「新福菜館」も有名店だが、やはり自分は第一旭が好きだと改めて思った。

 全体として再訪の旅ではあったが、新しい所にも足を運ぶことができた。奈良の興福寺、東大寺、春日大社、法隆寺。特に印象に残ったのは、法隆寺の釈迦三尊像。雰囲気に圧倒された。東大寺の盧舎那仏像はとても有名だが、修学旅行生の喧騒と知名度により、心から楽しむことができなかった。それに比べて、釈迦三尊像は一目見て顔立ちに圧倒された。

 本橋君に薦められた平等院鳳凰堂も良かった。行く途中の道が良いという言葉のとおり、立ち寄りたくなる店が多く軒を連ねていた。「永楽屋」でブックカバーを買い、「中村藤吉本店」で宇治のふきよせと抹茶カプチーノを頂く。旅行は目的地とそれまでの道程をいかに楽しむかが鍵だということを改めて感じさせられた。

 出費は嵩んだが、総じて満足できる旅だった。これも1年に1度。旅の間は全力で楽しむ努力をするべきなのだ。それを体現できた旅であった。

SWまとめ。

■取手送別会(9/18)
 渋谷の海峡で同期飲み。同じ課で2ヶ月以上研修をしていた連中ともバラバラに。一人は取手に行ってしまうので、今生の別れとなるでしょう。先日、休出で取手に行ったのも、取手サーバ室の静脈認証に登録済みなのも何かの間違いだろうね。そうそう取手に行くことなんてないからね。今生の別れだからね。寂しいね。

■曙橋(9/19)
 今年から一人暮らしを始めた友人宅へお邪魔する(この「お邪魔する」が本当の意味で「お邪魔している」ということに何人が気付くだろうか)。旅行土産の地ビールと日本酒を頂いた。やはり持つべきものは良い友人だ。別に酒を買ってきてくれたから、とかいうつもりはない。後日、浅漬けの素を買ってきて、キャベツ×キュウリ×大根の浅漬けを作ってみました。やっぱり旨いね。漬け汁は少なめで野菜の水分でっていうのも納得。

■本門寺(9/20)
 別記事参照。鶏と大根の照り煮と浅漬けを作る。

■kyct(9/21)
 アンサンブルが楽しい。調子は良くないけれど、社会人になっても吹ける喜びを毎回噛み締めている。練習後の飲みが楽しいというのも確かにあるのだが、それは多分、練習が楽しいから十分に楽しいのであって、飲み会だけやってもただ楽しいだけなのだ。そして、練習をもっともっと楽しくしていかなきゃいけない、と思っている。

■G(9/22)
 本番まで後3回なのに、ポケモンの合奏に乗っていなかったので、重い腰を上げてようやく参加。やっぱり打ち込み系を楽器でやるのは骨が折れる。楽器用に練られていないものを機械のようにさらうのは辛い。もっと個人練しないと。しかし、合宿行きたかったなぁ。

■買い物(9/23)
 別記事参照。

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 夏期休暇の反動なのか、今回は全くプランを練らずに突入したのもあって、比較的まったりした連休だった。10月頭にフリーバカンスもあるし、あまりSWの意義を見出せなかったと言えばそれまで。それでも、いつもながら友人は重要。

空っぽ

 相変わらず、自分には何もないのだなぁ、と思い知らされる。別に、仕事の上でとか、スキルうんぬん、知識うんぬんという話だけではない。自分が空っぽな人間である気がしてくる。気がするのではなくて、多分本当にそうなのだ。毎日、えも言われぬ焦燥感に駆られる。

 多分、仕事に慣れてスキルが上がっても、楽器に読書に旅行に飲み会にと日常生活が充実しても、本質的には拭えないものなんだろう。自分という枠に囚われている限り、抜け出せない。常に逃げ場のある生活は、凡庸だからこそ安全だ。その凡庸な生き方にどうにか意味付けをしようとするから、無理が生じる。

 凡庸な道を歩む覚悟を決める。勇気の要ることだけれど、いつまでも「ここは、、、」と思っていたら、おそらく死ぬ時まで「こんなはずじゃなかった」と思うことになる。今を否定し続けて、結果的に凡庸な人生を送っていたというのが、最も恐れるべき最期だ。

 しかし、今まで何度となく同じようなことを考えて、何か変わったことがあったか?書き殴るより前に行動をしろ。